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貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その12)
12th 4月 2009
“中公クラシックス”より抜粋
就寝の時刻
夜に書物を読んだり、人と談話したりするのは三更を限りにしなければならぬ。一夜を五更に分けた場合、三更というのはわが国の時鼓の四つ半過ぎから九つ(午後11時から午前零時の間)であろう。深更(午前零時以後)まで眠らないでいると精神が静まらない。
陽と陰と
天地の理でいえば、陽は一で陰は二である。水は多く火は少ない。水は乾きにくく火は消えやすい。人間は陽の種類で少なく、鳥・獣・虫・魚は陰の種類で多い。だから陽が少なくて陰の多いのは自然の理である。少ないものは貴く多いものは卑しい。君子は陽の種類で少なく、小人は陰の種類で多い。易道では陽を善として貴び、陰を悪として卑しみ、君子を尊び小人を卑しむ。水は陰の種類である。暑い月には水を減らしたいのだが、ますます多くなる。寒い月には水を増やしたいのだが、かえって涸れて少ない。春夏は陽気が盛んなため水が多く生ずる。秋冬は陽気が衰えるから水は少ない。血はたくさん減っても死なないが、気はたくさん減るとたちまち死ぬ。
吐血・刀傷・産後など、陰血のたくさん失われたものは、血を補えば陽気がますます減って死ぬ。気を補うと、生命を保って血も自然に生じてくる。古人も「血脱して気を補うは古聖人の法なり」といっている。人身は陽が常に少なくて貴く、陰がつねに多くて卑しい。だから陽を貴んで盛んにするが良い。陰を卑しんで抑えryが良い。元気が生じると、本当の陰もまた生じる。陽が盛んだと陰もおのずと成長してくる。陽気を補うと、陰血もおのずと生ずる。もし陰の不足を補おうとして、地黄・地母・黄栢などの、苦く、からだを冷やす薬を長期に服用すると、もとになっている陽気をそこなって、胃の黄が衰えて血を増やさず、陰血もまた消えるだろう。また陽の不足を補おうとして鳥附(とりかぶとのあたらしい根)などの毒薬を用いると、邪火を助けて陽気もまたなくなってしまう。これは陽を補うことにならない。
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近世は人の元気がだんだん衰えている。丹渓の法にしたがって、もっぱら陰を補うと、脾胃をきずつけ、元気をそこなうであろう。ただ李東垣(金元時代の医者)が脾胃を調整するため温補の法をいったが、これは医学の王道であろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・
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貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その11)
12th 2月 2009
“中公クラシックス” より抜粋
呼吸の法
呼吸というのは人の鼻からいつも出入りする息のことである。呼は出る息で、からだの中の気を吐くのである。吸は入る息で、外気を吸うのである。呼吸は人の生気である。呼吸がなくなると死ぬ。人の体内の気は、天地の気と同じで、内外が通じ合っている。人が天地の気の中にいるのは、魚が水中の中にいるのと同じだ。魚の体内の水も外の水と出入りして、同じ水である。人の体内にある気も天地の気と同じである。しかし体内の気は五臓六腑にあるので、古くなり汚れる。天地気は新しくてきれいである。時々鼻から外気をたくさん吸い込まないといけない。吸った気が体内にたくさん溜まったら、口から少しずつ静かにはきだす。乱暴に早く吐き出してはいけない。これは古くなった汚れた気を吐き出して、新しいきれいな気を吸い込むのである。新しいのと古いのとを交換するのである。これをおこなうときは、姿勢を正しくして仰臥し、足をのばし、目をつむり、手をしっかり握って、両足の間隔は五寸、両ひじとからだの間隔も五寸になるようにする。一日一夜の間に、一、二度おこなうがよい。ずっと後になって効果が出てくるだろう。気を落ち着けてやらないといけない。
ふだんの呼吸
ふだん呼吸するときは、息をゆっくり、深く丹田に入れるようにする。急なのはいけない。
調息の法とは
調息の法とは呼吸を整え、静かにして息がだんだんと微小になっていくことである。これを長く続けると、鼻の中を息が通っていないかのようになる。ただ、臍の上から微小な息が往来するような感じになる。こうすると神気が定まる。これが気を養う術である。呼吸は全身の気の出入りするみちである。息を荒くしてはいけない。
心法を慎む
養生の術はまず心法を良く謹んで守らないとおこなわれにくい。心を静かにして落ち着け、怒りをおさえて欲を少なくし、常に楽しんで心配をしない。これが養生の術で、心を守る道でもある。心法を守らないと養生の術は行われない。だから心を養いからだを養う工夫は、二つでなくて一つの術である。
貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その10)
09th 11月 2008
“貝原益軒 「養生訓」” 中公クラッシクスより抜粋
養生の大要
内欲を少なくし、外邪を防いで、からだを時々動かし、睡眠を少なくする。この四つが養生の大要である。
気を養う
気を和平にし、荒くしてはいけない。静かにしてむやみに動かしてはいけない。ゆっくりするのが良く、急なのはいけない。口数を少なくして気を動かしてはいけない。いつも気を丹田に集中して胸にのぶらせぬことである。これが気を養う法である。
気をめぐらす
古人は詠歌や舞踏をして血脈を養った。詠歌というのは歌を歌うのだし、舞踏というのは手で舞い足で踏むのである。みな心を和らげ、からだを動かし、気を循環させてからだを養う。養生の道である。
四募とは
思いを少なくして、神(心)を養い、欲を少なくして精(たましい)を養い、飲食を少なくして胃を養い、言を少なくして気を養わねばならぬ。これが養生で四募(しか)というものだ。
七養とは
摂生の七養というものがあるこれを守らないといけない。一は言を少なくして内気を養う。二は色欲を戒めて精気を養う。三はうまい味を少なくして血気を養う。四は唾液を飲んで臓気を養う。五は怒りをおさえて肝気を養う。六は飲食を制限して胃気を養う。七は思慮(心配ごと)を少なくして心気を養う。
長いのはよくない
長時間歩き、長時間すわり、長時間たち、長時間横になり、長時間話をするのはよくないこれは長時間動いて浮かれるから気が減るのだ。また長時間安逸にしていると気が塞がる。気の減るのと塞がるのとは、ともにからだの害となる。
四養とは
養生の四養は、むかっ腹を立てることをせず、心配を少なくし、言を少なくし、欲を好むのを少なくするにある。
貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その9)
09th 5月 2008
“ 貝原益軒 「養生訓」” 中公クラシックスより抜粋
怒れば氣のぼる
『素問』に「怒れば氣上る。喜べば氣緩まる。悲しめば氣消ゆ。恐るれば氣めぐらず。寒ければ氣閉ず。暑ければ氣泄る。驚けば氣乱る。労すれば氣へる。思えば氣結ぼる」とある。すべての病気はみな氣からおこる。病気というのは気が病むのである。だから養生の道は氣を調整することにある。調整するというのは、氣を和らげて平らかにすることである。およそ氣を養う道は、氣を減らさないのと、氣を塞がないのとにある。氣を和らげて平らかにすると、この二つの心配がない。
丹田に力を
へそから下三寸を丹田という。両方の腎のあいだの動気はここにある。『難経』に臍下腎間の動気は人の生命なり。十二経の根本なり」と書いてある。ここが人のからだの生命の根本がある場所だ。氣を養う術は常に腰を正しくすえ、氣の精を丹田に集中し、呼吸を静かにし、ことにあたっては胸の中から何度にもかすかに氣を口の中に吐き出して、胸中に氣を集めないで、丹田に氣を集める。このようにすれば氣がのぼらず、胸が騒がず、からだに力ができる。貴人に対して物を言うときも、大事変にのぞんで落ち着かぬ時も、このようにするがよい。やむをえず人と論争しなければならぬ場合も、怒気のためにきずつけられず、かるがるしくならず、間違わない。あるいは武芸・武術に励み、武士が槍・刀を使って敵と戦うにも、みなこの法を主とすべきである。これは何か一生懸命やろうとして、氣を養うのにためになる術である。およそ技能をふるおうとするもの、特に武士はこの法を知らなければならぬ。また道士が氣を養い、僧が座禅するのもみな氣の精をへその下に集中する方である。これは平静のかえる工夫であり、技能をふるうものの秘訣である。
七情の戒め
七情というのは、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲のことである。医書のほうでは、喜・怒・優・思・悲・恐・驚を七情にしている。また六欲というのがある。耳・目・口・鼻・身・意の欲のことである。七情のうち、怒と欲の二つが、もっとも徳を傷つけ、生をそこなう。怒りを抑え、欲を我慢するのは『易経』の戒めである。怒りは陽に属し、火がもえるようである。人の心を乱し、元気をそこなうのは怒りである。おさえて忍ばないといけない。よくは陰に属する。水が深いようなものだ。人の心を溺れさせ、元気を減らすのは欲である。注意して我慢するがよい。
十二少とは
養生に一つの要訣がある。要訣とはいちばん大切な奥義である。養生に志す人はこれを覚えていて実行するがよい。その要訣というものは少の一字である。少とは万事をみな少なくして多くしないのをいう。すべてひかえめに、いわば欲を少なくするのをいう。欲とは耳・目・口・体のむさぼり好むをいう。酒食を好み、好色を好むの類である。およそよくの深いのを積み重ねていると、からだをそこなって命を失う。欲を少なくすると養生になり命を延ばす。欲を少なくするにその項目が十二ある。「十二少」と名ずけられている。必ずこれを実行することだ。食を少なくし、飲むものを少なくし、五つの味のつけすぎを少なくし色欲を少なくし、口数を少なくし、事を少なくし、怒りを少なくし、憂いを少なくし、悲しみを少なくし、思いを少なくし、寝るのを少なくすべきである。このように何でも少なくすると元気が減らず、脾腎をそこなわない。これは長生きする道である。十二に限らず何事も身のおこないと欲とを少なくするがよい。
物事に数多く、幅を広げすぎてはいけない。数が少ない、幅が狭い方がよい。
貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その8)
09th 3月 2008
“ 貝原益軒 「養生訓」” 中公クラシックスより抜粋
みずからを欺かず
養生の要点はみずから欺くことをしないように、よく我慢することのある。みずから欺くというのは自分で悪いこと知っていることを嫌わないでするのをいう。悪いと知っていてするのは、あくを嫌うのが真実でないということだ。これがみずから欺くことである。欺くとは真実でないことだ。食事に限っていえば、たくさん食べるのは悪いと知っているが、悪いことを嫌う心が真実でないとたくさん食べてしまう。これがみずから欺くことである。その他のことも、これから推しはかれば良い。
完璧を望むな
すべてのことは、十のうち十までよくなろうとすると、心の負担になって楽しみがない。不幸もここから起こる。また他人が自分にとって十のうち十までよくあってほしいと思うと、他人の不足を怒りとがめるから、心の負担となる。また日用の飲食・衣服・器物・住宅・草木などもみな華美を好んではいけない。多少ともよければ間に合う。十のうち十までよいものを好んではならぬ。これもみな自分の気を養う工夫である。
よく知ること
ある人が、養生の道は飲食・色欲をつつしむのと同じであることは皆が知っている。しかし、つつしみがたく気ままになりやすいから、養生ができないのだといった。私はそうは思わない。これはまだ養生の術をよく知らないのだ。よく知ったら、どうして養生の道を行わないでいられよう。水に落ちれば溺死する。火に入れば焼死する。砒霜(ひそう・三酸化砒素の結晶)を飲めば中毒死することは、誰でも知っているから、水火にとびこんだり、砒霜を飲んだりして死ぬ人はない。多欲が生命をきずつけることは、刀で自殺するのと同じだという道理を知っていたら、どうして欲を我慢せずにいられよう。すべてその道理をはっきり知らないことは、迷いやすく間違いやすい。人が間違って不幸になったのは、みな知らないから起こったのだ。赤ん坊が這っていって井戸に落ちて死ぬようなものだ。
養生の道をよく知っていたら、どうして慾のままになって、身を慎まずにいられよう。
中を守る
養生の道は中を守るがよい。中を守るというのは、過不足のないのをいう。食物は空腹をなくすだけでやめておくがよい。間違って食べ放題になってはならぬ。これが中を守ることである。なんにでもこうするがよい。
貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その7)
08th 6月 2007
“ 貝原益軒 「養生訓」” 中公クラッシクス より抜粋
胃の気とは
胃の気とは元気の別名である。沖和(ちゅうか・やすめ和らげる)の気である。病気が重くとも胃の気のある人は生きる。胃の気のない人は死ぬ。胃の気の脈は、長くなく、短くなく、遅くなく、速くなく、大きくなく、小さくなく、ちょうど年齢にあってほどよくやわらかく、きれいである。この脈は何とも名のつけようがない。自分で会得するよりほかはない。元気の衰えない無病の人の脈は、こういうものである。これは古人の説である。養生する人はいつもこういう脈を願うことだ。養生しないで気の減った人は、若くてもこういう脈が少ない。これは病人である。病脈だけがあって胃の気の脈のない人は死ぬ。また目に精神のある人は長生きする。精神のない人は命が短い。病人をみるにもこの術を使うがよい。
心をゆたかに
養生の術は、荘子がいったように、名調理師包丁(ほうてい)が牛を料理した如くであるべきだ。牛の骨の関節には隙間がある。肉切り包丁の刃はうすい。うすい刃を広い関節の隙間に入れれば、刃は動く余裕があって骨に触らない。それだから19年間も牛を料理してきたのに、包丁の刃はいま研いだばかりのようだったという。人の世においても、心をゆたかにして物と争わず、利にしたがって行動すれば、世にさわりがなく、天地が広い。こういう人は意に地が長い。
唾液を大事に
唾液はからだ全体の潤いである。変化して清血(血液の純粋なもの)となる。草木に精液がないと枯れる。大切なものである。唾液は内臓から口の中に出てくる。唾液は大事にして、吐いてはいけない。ことに遠くつばを吐いてはいけない。気がへる。
病気にあった治療を
何事もあまり良くしようとして急ぐと、きっと悪くなる。病気の治療もまた同じである。病気になったといって、医者を選ばず、むやみに医者を求めたり、薬を飲んだり、また鍼灸をむやみにしたりするのは害になることが多い。導引や按摩もそうだ。病気に適応するかどうかを知らないで、むやみに治療を求めてはいけない。温泉療法もまたそうである。
貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その6)
08th 5月 2007
“貝原益軒 「養生訓」” 中公クラシックス より抜粋
食後は寝るな
酒食の気がまだ消化しないうちに横になって寝ると、きっと酒食がとどこおって気がふさがり、病気になる。警戒しなければならぬ。昼はけっして横になってはならぬ。大いに元気をそこなうものである。昼はけっして横になってはならぬ。大いに元気を損なうものである。もしひどく疲れたら後ろに寄りかかって寝るが良い。もし横になるのだったら、そばに人を置いて少しの間寝るが良い。長く眠ったら人に呼びさましてもらうが良い。
過信は禁物
養生の道で過信は禁物である。自分の身体の強いのを過信したり、若さを過信したり、病気が軽快したことを過信したりするのは、みな不幸のもとである。刃がよく切れると過信して堅いものをきると刃がこぼれる。気の強いのを過信してむやみに気を使いと、気が減ってしまう。脾腎の強いのを過信して飲食・色欲を過ごすと病気になる。
自分をかわいがりすぎるな
心は楽しませねばならぬ。苦しめてはいけない。からだは骨折らせねばならぬ。休ませすぎてはいけない。およそ自分をかわいがり過ぎてはいけない。おいしいものを食べ過ぎ、うまい酒を飲みすぎ色を好み、からだを楽にして、怠けて寝ているのが好きだというのは、みな自分をかわいがりすぎるのだから、かえってからだの害になる。また病気で無いのに補薬(精力を補うための薬)をむやみにたくさん飲んで病気になるのも、自分をかわいがりすぎるのである。子をかわいがりすぎて、この不幸となるようなものである。
飲食と睡眠
飲食はからだを養い、睡眠は気を養う。しかしあまり飲食を制限すると脾胃を損なう。寝るときでないのに寝ると元気を損なう。この二つは、養生をしようとしてかえってからだをそこなう。よく養生する人は、早くおき、夜半に寝て、昼間は寝ず、いつも業務に励んで怠らず、睡眠を少なくし、精神をすがすがしくし、飲食を少なくし、腹の中をきれいにする。このようだから、元気がよく循環が妨げられず病気にならない。生じてきた気は養分を得て、血気はおのずから盛んになり病気にならない。この寝食の二つが適当に制限されるにが、また養生の要点である。
心を楽しませる
ひとり家にいて、静かに日を送り、古書を読み、古人の詩を吟じ、香をたき、古い名筆を写した折本をもてあそび、山水を眺め、月花を観賞し、草木を愛し、指揮の移り変わりを楽しみ、酒はほろ酔い加減にのみ、庭の畑にできた野菜を膳に上すのも、みな心を楽しませ気を養う手段である。貧賤の人もこの楽しみならいつでも手に入れやすい。もしこの楽しみを知っていれば、富貴ではあるが楽しみを知らない人に勝るといえる。
貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その5)
08th 4月 2007
昨年4回にわたって「養生訓」から学ぶと題して連載してきました。またいつか連載してみたいと思っておりましたが、お休みしていた期間に、「連載してほしい」とのメール等をいただき、今回から始めてみたいと思います。これはあくまで「養生訓」からの抜粋ですので、興味をもたれた方は是非本を求めて学んでみてください。養生することの大切さと、その意味を知ることが出来ます。
皆さんの体調が守られ、元気に一日一日を過ごしていけますようねがっております。
“貝原益軒 「養生訓」” 中公クラシックス より抜粋
総論 下
食氣のとどこおらぬよう
およそ朝は早く起きて、手と顔を洗い、朝の行事を済ませ、食後にはまず腹を何度も撫で下ろし、食氣の循環を良くする。また京門のあたりを人差し指の内側で斜めに何度も撫でるが良い。腰も撫で下ろし、下部を静かにたたく。きつくたたいてはいけない。もし食氣がとどこおったら、顔を上向けて三、四度食毒の気をはく。朝夕の食後に長く楽な姿勢で座ってはいけない。横になって寝るようなことは、けっしてしてはならぬ。長く座り、横になって眠ると、気がふさがって病気になり、度重なると命が短くなる。
からだを動かす
家にいたら、時々自分の体力で辛くない程度の運動をするのが良い。たったり座ったりするのをめんどうがらず、室内のことは召使いを使わないで、何度も自分で立ってからだを動かすことである。
こうやっていつもからだを動かしていると、気血の循環がよく食気がとどこおらない。これが養生の要術である。
じっとしていない
華陀の言ったことに「人の身は労働すべし。労働すれば穀気消えて、血脈流通す」とある。およそ人間のからだは、欲を少なくし、時々運動し、手足を働かせ、一箇所に長く座っていないようにすれば、気血は循環してとどこおらない。養生の要務である。毎日こうしないといけない。
「流水腐らず、戸枢むしばまざるは、動けばなり。形気もまた然り」
『千金方』にいう
『千金方』に養生の道では「久しく行き、久しく座し、久しく臥し、久しく視る」ことをしないようにといっている。
貝原益軒「養生訓」から学んだこと
08th 9月 2006
貝原益軒の「養生訓」から4ヶ月に渡って学んできました。現代人にとってはかなり耳の痛い話の連続だったようです。これまでの内容でお分かりいただけたことと思いますが、すべてに過ぎることは気の滞りを招き、身体の中庸が保てなくなって病気へと傾いていくと言うことです。そして中庸に保つと言うことが、大変難しいと言うこともお分かりいただけたでしょう。このことは、私も含めて皆さんも体験から良くわかっていることですね。
治療室で治療させていただいていますと、良くこの中庸の難しさを感じさせられます。「わかっているんですけど、なかなかやめられなくて」「皆と違う服装が出来ないんです。寒くてきついんですけど。高校を卒業したら暖かい服装にします」「ついつい寝る前になると小腹がすいて食べてしまうんです食べると朝食が食べられなくなってしまうんですが」等々。
自分の欲求に、人の見る目になかなか勝てません。人生一度きり、楽しまなければと言う人もいます。それぞれの人生ですからそれもいいのでしょうが。
でも次のことは言えるのでは。
治療体験から「自分の食欲に任せて食べています。特に、美食の時代と言われ高カロリー食を多く取っています」その結果、心臓に負担がかかるようになりました。つまり、心臓に血液を送る血管が細くなり、狭心症になったのです。治療と共に、食も改善していただき症状が改善されていきました欲に任せ食べ、多くのお金を使い、挙句の果てに医療費も多くかかるようになってしまいます。
私たちは、多くの過ちを犯しつつ暮らしてきています。つまり小過の連続と言えるでしょう。大過はすぐにわかるものですが、小過は知らず知らずのうちに身体を少しずつ変えていきます。
少しだけでいいです。生活を少しだけ見つめなおして診ませんか。
貝原益軒の「養生訓」は今回で終了といたします。まだ、内容的には「総論の前半の内容に過ぎませんが」また、改めて来年にでも連載したいと思います。
これを機会に、少しだけ我慢してみませんか。
貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その4)
08th 8月 2006
引き続き貝原益軒の「養生訓」から学びつつ、皆さん健康のお役に立てればと思います。
来月は、私なりの総括をしてひとまず閉じたいと思っております。苦労せず、薬等で体調を整えようと安易に考えがちな現代人に注意を喚起していきたいものです。
「中公クラシックス・貝原益軒 養生訓より抜粋」
気血のとどこおらぬよう
陰陽の気というものが天にあって、流動して滞らないから春夏秋冬がうまくいき、万物の生成がうまくいくのだ。陰陽の気がかたよってとどこおると、流動の道がふさがって冬が暖かで夏が寒くなったり、大雨・大風などの異変があったりして、凶作や災害を起こす。人のからだでもまたそうだ。気血がよく流動してとどこおりがないと、気が強くなり病気にならない。気血が流動しないと病気になる。その気が上のほうにとどこおると頭痛やめまいになり、中ほどにとどこおると心臓や腹の痛みとなり腹がはり、下のほうにとどこおると、腰痛・脚気となり、淋せん(排尿病)・痔漏となる。このためよく養生しようとする人は、できるだけ元気のとどこおらぬようにすることである。
心のなかの主人
養生を志す人は、いつも心の中に主人がなくてはならぬ。主人があると、思慮をして是非をみわけ、怒りを抑え、欲を防いで間違いが少ない。心に主人がないと、思慮がなく、怒りと欲とをこらえないで好き勝手なことをして間違いが多い。
我慢が肝心
何事でも、一時的に気持ちのいいことは、必ずあとで禍になる。酒食を好きなだけ取れば気持ちがいいが、やがて病気になるようなものだ。はじめに我慢すれば、必ずあとの喜びになる。
病気のもと
気は一人のからだの中の全体にいきわたるようにしなければならぬ。胸中の一箇所に集めてはいけない。怒り・悲しみ・憂い・思いがあると胸中の一箇所に気がとどこおって集まる。七情が過度になって、気がとどこおるのは病気のおこるもとである。
