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昨年4回にわたって「養生訓」から学ぶと題して連載してきました。またいつか連載してみたいと思っておりましたが、お休みしていた期間に、「連載してほしい」とのメール等をいただき、今回から始めてみたいと思います。これはあくまで「養生訓」からの抜粋ですので、興味をもたれた方は是非本を求めて学んでみてください。養生することの大切さと、その意味を知ることが出来ます。

皆さんの体調が守られ、元気に一日一日を過ごしていけますようねがっております。

“貝原益軒 「養生訓」” 中公クラシックス より抜粋

総論 下

食氣のとどこおらぬよう

およそ朝は早く起きて、手と顔を洗い、朝の行事を済ませ、食後にはまず腹を何度も撫で下ろし、食氣の循環を良くする。また京門のあたりを人差し指の内側で斜めに何度も撫でるが良い。腰も撫で下ろし、下部を静かにたたく。きつくたたいてはいけない。もし食氣がとどこおったら、顔を上向けて三、四度食毒の気をはく。朝夕の食後に長く楽な姿勢で座ってはいけない。横になって寝るようなことは、けっしてしてはならぬ。長く座り、横になって眠ると、気がふさがって病気になり、度重なると命が短くなる。

からだを動かす

家にいたら、時々自分の体力で辛くない程度の運動をするのが良い。たったり座ったりするのをめんどうがらず、室内のことは召使いを使わないで、何度も自分で立ってからだを動かすことである。

こうやっていつもからだを動かしていると、気血の循環がよく食気がとどこおらない。これが養生の要術である。

じっとしていない

華陀の言ったことに「人の身は労働すべし。労働すれば穀気消えて、血脈流通す」とある。およそ人間のからだは、欲を少なくし、時々運動し、手足を働かせ、一箇所に長く座っていないようにすれば、気血は循環してとどこおらない。養生の要務である。毎日こうしないといけない。

「流水腐らず、戸枢むしばまざるは、動けばなり。形気もまた然り」

『千金方』にいう

『千金方』に養生の道では「久しく行き、久しく座し、久しく臥し、久しく視る」ことをしないようにといっている。

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『鍼はなぜ効くんでしょうか?』

このところ数回にわたってわかりやすく?書いてきました。が、実際はわかりにくいものだと思います。

そこで、今回は幼児・小児の治療からお話してみることにしましょう。

当院には、毎日のように幼児・小児が治療に来ています。アトピーだったり、喘息だったり、便秘だったり、風邪だったり、中耳炎だったり、副鼻腔炎だったり様々な症状の子供たちが来ています。このホームページの「治療法」の中で触れていますが、小児用に用いているテイシンの写真が載っていますね。絵でしか見ないとどういうものかさっぱりわからないでしょうが、辛抱強くお付き合いください。

まずは、このテイシンからお話していきましょう。

当院で使っているテイシンは、20金の金鍼で、皮膚に刺し入れない鍼なのです。実際には、刺さないどころか、幼児・小児に使う場合には特に、皮膚に接触すらしません。それで効果が現れるのです。この鍼を近ずけることによって、身体が良いほうに変化し、氣の過不足を調整し、症状を取り去るのです。先にあげた症状がありますが、これらの症状が改善され、完治へと導かれるのです。当然、大人と治療法は殆んど変わりません。そこには鍼数(ドーゼ)の差がありますが。

鍼治療のイメージといえば、鍼を刺す。刺すことで身体に刺激を与える。その結果、痛み等が治るという感じです世ね。

ところが、私が実際に幼少児に使っている鍼(テイシン)は、この観念を覆すものです。刺さないのに治っていく。そこにあるものといえば、刺激ではなく、氣の調整による治療というしか考えられないでしょう。

この氣の調整こそが古来からおこなわれてきている治療法(氣を調整する治療法=経絡治療)なのです。

「鍼は痛いもの。お灸は熱いもの」

もうこういう考え方ををやめましょう。このために、せっかくある治す機会が、失われては大変残念です。

幼少児が笑いながら、ニコニコしながら、お話しながら受けられる治療なのです。

氣の調整をおこなう経絡治療に、少し期待してみませんか。

『百聞は一見にしかずです』 一度経絡治療鍼専門の治療院へ行ってみてください。そこにはあなたの求めているものがありますよ。

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「鍼はなぜ効くの?」とやさしくわかりやすくをモットーに書いてきましたが、一向にわかりやすくかけないようです。でも、基本的なことは少しは理解いただけたかと勝手に思うことにしました(自分のふがいなさに気落ちしていますが、どうにもなりませんので、お許しください)

今回は、少し違うお話をしてみたいと思います。

例えば、肩が痛む、肩がこる、腕が痛くて上がらないという症状の方がおられます。私は、経絡治療を行う鍼師ですので、一般的にイメージされる痛むところにハリネズミのようにいっぱい鍼をするわけではありません。その原因となっている氣・血の変動(経絡の変動)をとらえ、全身の調整をしていきながら、個の部を調整していく治療法をおこなっています。

つまり、痛む部位への刺鍼も大切ですが、その部を通る経絡の変動を整えることも大変大切なことなのです。ですから、よく肩が痛むのに下肢への刺鍼で痛みをとったり、背中への刺鍼によって取ったりします。「不思議ですね。足に鍼をしたのに肩や、頸が楽になってきました」と、よく患者さんが言われます。実に不思議なことのようですよね。でも、これは魔法でも、不思議なことでもないのです。

経絡と言われる氣の流れが、ある一定の幅と深さを持っているため、肩のどの部に痛みがあるかによって、その部を通る経絡を調整することによって、その部の痛みを和らげていくためです。ですから魔法でもなく、不思議なことでもないのです。当たり前のことなのです。

前にも書いていますが、内臓を中心に全体を考える東洋医学においては、からだそのものが各内臓の支配下にあり、その反応の表れとして痛み等が出ていると考えます(実際に臨床に携わっていますと、非科学的なことと笑ってしまう人もいますが、まさにそのとおりと驚きの連続なのです)

鍼は痛むところへの刺鍼刺激で治すというだけでは、解決できないことが多いのです。そこには古典で言われている氣・血、虚・実、陰・陽という概念を中心とした刺鍼技術が必要となるのです。その体系が『経絡治療』ということになるでしょう。

私自身、鍼の勉強をすることになる前に聞いた「鍼灸マッサージは慰安業だよ」という言葉にそうではないはずと思いつつ、勉強をしているときに経絡治療に出会いました。私にとってすばらしい出会いとなりました。2000年も3000年も続いてきている鍼灸は、決してそのようなものではないのです。

鍼灸は病人を診ながら病気を治していく、れっきとした医学(東洋医学)です。少しでも、皆さんの意識が変わり、具合の悪い方が鍼にいけば楽になれ、治してもらえると思ってもらえるよう、益々鍛錬を積んでいかねばと思わされています。

これからも、健康に関すること、私なりに考えていること等、書いて参りますのでよろしくお願いいたします。

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「鍼はなぜ効くの?」と今回で3回目となりますが、書けば書くほどわかりやすくかけず、少し自己嫌悪に陥ってしまいました。わかりやすく書くことは難しいものだと改めて思い知らされています。しかし、このまま終わったのではさっぱりわからないままになってしまいますので、別の角度から再度チャレンジしてみることにしました。私が普段治療室で話していることなどをベースにしてみます。

まず、その1で書きましたように一般的な鍼のイメージは痛むところ・悪いところに鍼を刺して痛み等をとってくれると言うことのようです。これは大きな間違いではありません。実際にテレビや最近良く聞く健康番組等では、「この穴はどこそこに効く穴」「足のむくみにはこの穴を刺激してください」とかわかりやすく紹介しています。これは、東洋医学・鍼灸を普及すると言う観点ではいいのでしょうがこれだけでは東洋医学のすばらしさを伝えられません。

私たちは、生まれてこれまで西洋医学の中にどっぷりとつかり、西洋的な科学の中で生活しています。ですから鍼灸の世界においても病名・症状からこれに効く何々と考えてしまいます。鍼灸・東洋医学に携わっている私でさえ、ついつい西洋的なものの考え方をしてしまいます。ですから無理もないのです。でも東洋的な思想の中で生まれてきた鍼灸・東洋医学は、やはりその生まれてきた思想背景で考えていかなければ本来の意味を間違って解釈してしまいます。

またまた難しくわかりにくいことを書き連ねてしまいましたが、大切な部分ですので書いてみました。不十分な説明ですが、鍼灸の根底に流れる東洋的な思想・考え方と言うものがあることをご理解ください。

では、わかりやすく私が治療していることから書いてみましょう。

『頭痛のある患者さんの場合』

例えば偏頭痛の方で頭の脇が傷むという人がいます。一般的なイメージからすれば痛むところに鍼をすれば良い訳ですから、その部に何回も鍼をすることですむでしょう。でも、東洋的な古典鍼灸ではそうは考えません。「どうしてこの部に痛みが出るのか」これを東洋的に考察します。これを四診法(望・聞・問・切)を駆使し、原因(経絡の変動)を探ります。このときに切診のなかに含まれる脉診・腹診を十分に活用して経絡変動を見極めます。そして治療に入るのです。

その結果、この経絡変動を調整することによって、訴えのあった頭痛がなくなっていきます。このことは痛みをとるのみでなく、頭痛を発症しているからだの歪をも治しているのです。

次に、目の下にくまが出来ることがありますね。これは体が疲れきってぐったりしているようなときに見かけられます。それではこれを治すのにそこに鍼をするのでしょうか。そうされる方もいられるかもしれませんが。これは「胃・消化器系」の反応ですから体の示す変動経絡を理論によって調整することで次第に回復してくるのです。

このように、東洋医学のおける鍼灸は、東洋的な理論によってのみその力をフルに発揮できるといえるでしょう。

「鍼はなぜ効くの?と問われて答えるとすれば、東洋的な思考の内臓を中心とした経絡の変動が起こすからだの歪を鍼によって調整できるからです」と答えてしまいます。わかりにくいでしょうが。

ポイント

消化器の症状で次のようなことがあります。

  • お腹がすいているのに食べるとすぐにお腹が一杯になる。
  • お腹がすかないのに食べ始めると一杯食べれてしまう。
  • お腹もすかないしあまり食べたいとも思わない。

これらはそれぞれに意味のある経絡変動を表しています。このような症状がある時には無理をして食べすぎず、からだを回復させることに心がけてください。

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「鍼はなぜ効くんだろう」との疑問について、前回少しお答えしましたが、『』がポイントとだけお話して終わってしまいました。

治療とは、「手当てから」始まったとも言われます。痛むところに手を当てることから始められましたそのことからすると、痛むところに鍼を刺す。痛むところを揉み摩る。と言うことはわかりやすいでしょう。しかし、それのみに留まらず、『氣』の存在を発見し、経絡経穴を見つけ出すことによって、経絡中に流れる氣・血の過不足を調整する方策を見つけ出したのです。この調整によって病や痛み等を治癒させていくことが更にパワーアップされていきました。この体系が完成し、古典と言われる医学書(黄帝大経)が紀元後間もなく完成されています。

ちょと難しい話になってしまいました。出来るだけわかりやすく例を挙げながら解説してみましょう。

例えば腰痛の場合。

当院に初めて来られて腰痛を訴える患者さんの中で、すぐにうつ伏せになって待っておられる方がいらっしゃいます。腰が痛いので、腰に鍼をしてもらいたいとの思いが働くのでしょうか。これに関しては、鍼灸未経験者でも同じ光景を見る事があります。つまり、潜在的に鍼は痛むところに刺すものとの固定観念があるのでしょうか。これもひとつの方法ではありますが。

私はすぐに仰向けになってもらい、問診等を行い、脉診を経て腰痛を起こしている基となる経絡の変動(氣・血の過不足)を見極めます。そして、この変動を調整することによって経絡のバランスをとり、そのことによって内臓(臓腑経絡)バランスを取っていきます。

その結果、腰痛を治そうとする力が増し(もともとあるが低下している治癒力を回復させる)痛みを取り除いていくことが出来るのです。

この際の刺鍼箇所は、病体が教えてくれている「証」によって示された手・足の要穴に対して行われます。この治癒力をまず増進させる刺鍼が大切なのです。

仕上げとして、痛む箇所への刺鍼を数本加えて治療を終えます。

やさしく書こうとすればするほどどつぼにはまってしまい、益々わかりにくくなってしまいました。

乳幼児の治療などは、てい鍼(ていしん)と呼ばれる刺さない鍼を用います。先ほど書いたように、体があらわす「証」によって手足の要穴にこの鍼を近ずけるだけで改善されていきます。

痛むところに鍼を刺し、刺激して改善させるとはずいぶん違いますよね。

「なぜ鍼は効くのか?」との答えにはなっていないようですが、鍼は痛むところに刺して刺激を与えて治癒させるというだけのものではなく、二千年以上前から伝えられてきている『氣』を調整すると言う極めて神秘的な刺鍼法・技術によってのみ達成されていくものといえます。

ポイント

「体が重く疲れやすい。気持ちが落ち込んで何にも出来なくなる等。この他、症状がある場合には必ず経絡の変動があります。氣による調整が必要です」

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連日、患者さんの訴えられる症状を何とか和らげよう、具合の悪い状態を少しでも良い方向に向けていきたいと苦戦・善戦の日々を送っております。そんな中で、脉を診たり鍼をしたりしていますと、多くの疑問や質問を受けることがあります。

今回は、その中から『鍼はなぜ効くんですか?』との素朴な質問が心に残っていますのでそのことからお話していきたいと思います。

よく痛いところに手を当てる(手当て)ことで、少し痛みが和らぐように思うことがあります。これはその部に手を当てるということで、軽く圧迫する、手の温もりで冷えているところに温かみを与える等、その傷む部分を軽く刺激することで痛みが引いていきます。

このように考えますと、鍼も同じことのように思えますね。実際、このような考え方で鍼灸を行っている方々が圧倒的に多いことも事実のようです。生理学の詳しいことを明記できるほど優秀ではない私としては、皆さんの感覚的な面にすがりながら記載することになりますが。

つまり、痛むところに鍼をする、灸をすえると言うことは、なんとなくわかるような気がしますね。

「鍼をすると血行がよくなって痛みが引くんですね」なんかはよくお聞きすることです。

でも経絡治療の立場からは、違うのです。確かに反射作用としての効果は認めないわけにはいかないでしょうが、『氣』はこれをはるかに凌駕する力があると言ったほうがいいでしょう。

私には、気功師のような強い氣を持っているわけではありませんが、鍼という用具を通して生体と

『氣』の交流を行いながら、病態を治癒へと導いていくのです。

誰しもが『氣』を持っており、生体から『氣』を出しているのです。目には見えませんので厄介ですがある方法によってこの『氣』を感じ取ることは可能です。

こんなことを書いてしまうと「なんだか危ない人」と思われてしまいかねませんね。でも、鍼灸の始まりからこの『氣』と言う概念が大切にされてきたのです。

前置きが長くなってしまいました。この続きは次回にさせていただきます。

ポイント

「バランスの取れた身体は、免疫力を高め、病体を治癒へと導きます」

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貝原益軒の「養生訓」から4ヶ月に渡って学んできました。現代人にとってはかなり耳の痛い話の連続だったようです。これまでの内容でお分かりいただけたことと思いますが、すべてに過ぎることは気の滞りを招き、身体の中庸が保てなくなって病気へと傾いていくと言うことです。そして中庸に保つと言うことが、大変難しいと言うこともお分かりいただけたでしょう。このことは、私も含めて皆さんも体験から良くわかっていることですね。

治療室で治療させていただいていますと、良くこの中庸の難しさを感じさせられます。「わかっているんですけど、なかなかやめられなくて」「皆と違う服装が出来ないんです。寒くてきついんですけど。高校を卒業したら暖かい服装にします」「ついつい寝る前になると小腹がすいて食べてしまうんです食べると朝食が食べられなくなってしまうんですが」等々。

自分の欲求に、人の見る目になかなか勝てません。人生一度きり、楽しまなければと言う人もいます。それぞれの人生ですからそれもいいのでしょうが。

でも次のことは言えるのでは。

治療体験から「自分の食欲に任せて食べています。特に、美食の時代と言われ高カロリー食を多く取っています」その結果、心臓に負担がかかるようになりました。つまり、心臓に血液を送る血管が細くなり、狭心症になったのです。治療と共に、食も改善していただき症状が改善されていきました欲に任せ食べ、多くのお金を使い、挙句の果てに医療費も多くかかるようになってしまいます。

私たちは、多くの過ちを犯しつつ暮らしてきています。つまり小過の連続と言えるでしょう。大過はすぐにわかるものですが、小過は知らず知らずのうちに身体を少しずつ変えていきます。

少しだけでいいです。生活を少しだけ見つめなおして診ませんか。

貝原益軒の「養生訓」は今回で終了といたします。まだ、内容的には「総論の前半の内容に過ぎませんが」また、改めて来年にでも連載したいと思います。

これを機会に、少しだけ我慢してみませんか。

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引き続き貝原益軒の「養生訓」から学びつつ、皆さん健康のお役に立てればと思います。

来月は、私なりの総括をしてひとまず閉じたいと思っております。苦労せず、薬等で体調を整えようと安易に考えがちな現代人に注意を喚起していきたいものです。

「中公クラシックス・貝原益軒 養生訓より抜粋」

気血のとどこおらぬよう

陰陽の気というものが天にあって、流動して滞らないから春夏秋冬がうまくいき、万物の生成がうまくいくのだ。陰陽の気がかたよってとどこおると、流動の道がふさがって冬が暖かで夏が寒くなったり、大雨・大風などの異変があったりして、凶作や災害を起こす。人のからだでもまたそうだ。気血がよく流動してとどこおりがないと、気が強くなり病気にならない。気血が流動しないと病気になる。その気が上のほうにとどこおると頭痛やめまいになり、中ほどにとどこおると心臓や腹の痛みとなり腹がはり、下のほうにとどこおると、腰痛・脚気となり、淋せん(排尿病)・痔漏となる。このためよく養生しようとする人は、できるだけ元気のとどこおらぬようにすることである。

心のなかの主人

養生を志す人は、いつも心の中に主人がなくてはならぬ。主人があると、思慮をして是非をみわけ、怒りを抑え、欲を防いで間違いが少ない。心に主人がないと、思慮がなく、怒りと欲とをこらえないで好き勝手なことをして間違いが多い。

我慢が肝心

何事でも、一時的に気持ちのいいことは、必ずあとで禍になる。酒食を好きなだけ取れば気持ちがいいが、やがて病気になるようなものだ。はじめに我慢すれば、必ずあとの喜びになる。

病気のもと

気は一人のからだの中の全体にいきわたるようにしなければならぬ。胸中の一箇所に集めてはいけない。怒り・悲しみ・憂い・思いがあると胸中の一箇所に気がとどこおって集まる。七情が過度になって、気がとどこおるのは病気のおこるもとである。

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今月も貝原益軒「養生訓」から多くのことを学んでいきましょう。自分のしたいように生活をしている現代人には、耳の痛い話になるでしょうが、少しの時間自分の心の扉を開いて、取り込んでみませんか。何らかの力になると思います。

引き続き「中公クラシックス・貝原益軒 養生訓より抜粋」いたします。

養生の術を学ぶ

人間にはいろいろわざがある。わざをみがく道を術という。すべてのわざには、習熟すべき術がある。その術を知らないと、そのことが出来ない。そのうち至って小さい芸能も、皆その術を学ばないで、そのわざを習わないと、そのことが出来ない。例えば蓑を作ったり、傘をはったりするのは、至極たやすい技ではあるが、それでもその術を習わないと作れない。まして人間の体は天地と合わせて三才というが、こんなに貴重な体を養い、命を保って長生きするのは、大変大事なことである。その術がなくてはならぬ。その術を学ばないで、そのことを習わないで、どうして養生と長生きが出来よう。そのくせ、小芸には必ず師を求めて、教えてもらって、その術を習う。なぜなら才能があっても、その術を学ばないでは出来ないからである。人の体は至って貴く、これを養生してたもつのは、至極大事な術なのに、師もなく、教えもなく、学びもしなければ、習いもしない。養生の術を知らないで、自分の心の欲に任せていては、どうして養生の道を身につけて、生まれつきの天寿を保てよう。だから、養生をして、長生きしようと思ったら、その術を習わないといけない。養生の術というのは、ひとかどの大道で、小芸ではない。心にかけてその術を勉強しなければ、その道に達しない。その術を知っている人から習得できれば、千金にも変えられない。天地・父母から受けた大変大切な体を持っていて、これを保全する道を知らないで、勝手に身を持ち崩して大病を受け、からだをなくし早死にするのは、なんとおろかなことだろう。

養生の暇がない

こういう異論もある。養生の術などというものは、隠居した老人や、また若くても社会から離れてのんきにぶらぶらしている人にはいいかも知れないが、武士として主君や親に仕えて忠孝に勤め、武芸を習って体を動かしているものや、農・工・商にたずさわって昼夜家のわざに努力して時間がなく、からだに暇のないものには、養生など出来ないだろう。こういう人が、養生の術ばかりしていては、からだがふやけて、そのわざがのろくなって役に立たない、というのである。これは養生の術を知らない人の疑問で、無理もない。養生の術はのんきでぶらぶらしているだけが良いというのではない。心を静かにし、からだを動かすのが良いというのだ。体をのんきにさせるのは、かえって元気が停滞して病気になる。ちょうど流れている水が腐らず、戸の回転軸のところが腐らないのと同じだ。動くものは長持ちし、動かないものはかえって命が短いということである。

睡眠の欲

昔の人は三欲を我慢するようにといっている。三欲とは、飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲である。

飲食を制限し、色欲を慎み、睡眠を少なくするのは、みな欲をこらえることである。飲食と色欲を慎むことは、人は知っている。ただ睡眠の欲をこらえて、寝るのを少なくするのが養生の道であることは知らない人がいる。睡眠を少なくすると病気をしないようになるのは、元気が循環しやすいからである。睡眠が多いと、元気が循環しないで病気になる。夜遅くなって床に入って寝るのはいい。昼間に寝るのは最も害がある。日が暮れて早く寝ると食気が停滞して害がある。ことに朝夕に飲食がまだ消化せず、その気がまだ循環しないうちに早く寝ると、飲食が停滞して元気を損なうものだ。

昔の人が、睡眠を飲食・色欲に並べて三欲とするのはもっともなことだ。怠けて睡眠を好むと癖になって、睡眠が多くなり、こらえられなくなる。睡眠のこらえられないこともまた、飲食・色欲とおなじである。最初はしっかりこらえないと防げない。睡眠を少なくしようと努力して、習慣になると自然に睡眠が少なくなる。睡眠を少なくする習慣をつけることである。

少しの我慢

古い言葉に「莫大の禍は、須臾(しゅゆ)の忍ばざるに起こる」とある。須臾とはちょっとの間のことである。大きな禍は、ちょっとの間、欲をこらえないから起こるのだ。酒食・色欲など、ちょっとの間、少しの欲をこらえないため大病となり、一生の不幸となる。盃いっぱいの酒、碗半分の食をこらえないために病気になることがある。欲望は少ししか満たせないが、そのため傷つくことは大きい。蛍火ほどの日が家についても、盛んに燃えて大きな禍になるようなものだ。古い言葉に「犯すときは微にして秋毫の如し、病をなしては重きこと、泰山の如し」とある。まことにうまくいったものである。およそ小さなことが大きい不幸になることが多い。小さい過失から大きい不幸になるのは、病気の決まりである。警戒しないといけない。いつも右の古い言葉二つを心にかけて忘れてはならない。

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先月に続いて、貝原益軒の「養生訓」から現代に欠け、見失っているものを学んでみましょう。

引き続き「中公クラシックス・貝原益軒 養生訓より抜粋」いたします。

外物のたすけ

人間の元気は、もともと天地の万物を生む気である。これが人間のからだの根本である。この気がなければ人間など生まれない。生まれてから後は、飲食・衣服・住居などの助けで元気が養われて生命を保つ。飲食・衣服・住居の類もまた天地の生んだものである。生まれるのも養われるのも、みな天地・父母の恩である。

たとえば、草木に水と肥料との養分を過ごすと、かじけて枯れてしまうようなものである。だから人間は、ただ心の内の楽を求めて飲食などの外の養分を軽くしたほうがよい。外の養分が重くなると内の元気がそこなわれる。

心気を養うには

養生の術はまず心気を養うがよい。心を和らかにし、気を平らかにし、怒りと欲を抑え、憂いと思いを少なくし、心を苦しめず、気を損なわずというのが、心気を養う要領である。また寝る事を好んではいけない。ながく眠っていると、気が停滞して循環しない。飲んだり食べたりしたものがまだ消化していないのに、早く床に入って寝ると、食気がふさがって元気を損なう。用心しなければならない。酒はほろ酔いが良く、たけなわになるなかばでとめる。食は飽食のなかばにとどめ、腹いっぱいにしてはならぬ。

また風・寒・暑・湿を畏れ防いで、立ち居振る舞いに節度をもうけて慎み、食後には歩行してからだを動かし、ときどき導引をやって、腰や腹をなでさすり、手足を動かし運動して血気を循環させ、飲食を消化させるがよい。

外邪を防ぐ

風・寒・暑・湿は外邪である。これにあたって病気になって死ぬのは天命である。それは聖人・賢者でものがれられない。だが内気を充実させて、よく用心して予防すれば、外邪のおかしてくるのもまたまれである。

風・寒・暑・湿の外邪を予防しないのは怠慢である。飲食・好色の肉欲を我慢しないのは過失である。怠慢と過失とはみな用心しないからおこる。

心を安らかに

心はからだの主人である。この主人を静かに安らかにさせておかねばならぬ。からだは心の下僕である。動かして働かさねばならぬ。心が安らかで静かだと、からだの主人たる天君は豊かで、苦しみなく楽しむ。からだが動いてはたらけば飲食したものはとどこおらず、血気はよく循環して病気にならない。

内敵と外敵と

およそ人間のからだは、弱くもろくはかない。風前の灯の消えやすいようなものだ。・・・・ いつも慎んでからだを大事にしたい。まして内外からからだを攻める敵が多いのだから、気をつけねばならない。まずは飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲、また怒・悲・憂をもってからだを攻めてくる。これらはみな自分のからだの内からおこって攻めてくる欲だから内敵である。なかでも飲食・好色は内欲から外敵を引き入れてくる。もっとも恐るべきものだ。

風・寒・暑・湿はからだの外から入ってきて私たちを攻めるのだから外敵である。人間のからだは金石ではない。壊れやすい。ましてこんなに内外に敵を受けるのだから、内の慎みと外に対する防御がなくては、多くの敵に勝てない。まことに危ない。これだから人々は長寿を保てないのだ。用心を厳しくして、いつも内外の敵を防ぐ計画がなくてはならぬ。敵に勝たないと、攻め滅ぼされてからだをなくしてしまう。内外の敵に勝ってからだを保てるのも、その術を知ってよく防ぐからだ。

内敵に勝つには、心を強くして忍の字を用いることだ。忍というのは我慢することである。

まさに現代人の私たちにとっては、耳の痛い話ばかりです。飽食をしてからだを壊し、病気を引き起こして高額な医療費を使い、しまいには健康保険制度そのものの存続が危ぶまれるような時代になっています。今一度考えなおさねばならないようですね。次回に続きます。

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